大学院などではどのような研究をやっていたのですか?

大学院での研究は、大学の時から引き続いてやっていたもので、マンモグラフィの画像工学に関する研究です。マンモグラフィトモシンセシス、DBTの物理評価が出来るファントムの開発研究をしていました。

その頃国内では4社がDBTの装置を出していたのですが、それぞれ撮影条件が全く異なっていて、統一した画像評価の方法が全くなかったんです。それで、どのメーカーでも共通して使えるファントムを開発して、共通の物理評価で画質を判断できるのが良いのではないかと考えました。Z軸方向(深さ方向)の分解能を測れるファントムを先生と一緒に開発して、それを使って物理評価をしよう、という提案をしました。

 

マンモグラフィを専門として選んだ理由があれば教えてください。

難しい理由じゃないんですけど、やっぱり“女性だったらマンモグラフィ”みたいなイメージがあるじゃないですか。現場でも男性よりも女性に撮ってもらいたいというところが当然多くて、「女性だとマンモやってた方が何かと強い」という話を聞いていたこともあったので、「マンモやっとけば何かといいだろ(笑)」みたいなことで、学部生の時から考えていました。だから、大学、大学院の研究も「まぁ、マンモやっとけばいいだろ!」と思って、マンモの研究をすることになったんです。

女子医大の方でも「マンモをやらせて欲しい」と言ったら、やらせてもらえたこともあって、大学院の時は現場も色々見れた上での“研究”ということも出来たから、それも合わせて良かったのかなと思いますね。

 

学生時代の話に戻りますが、音楽活動もしながら、勉強も大好きだったというお話で、何かとっても要領がいいのかなというイメージを持っているのですが、どうやって2つのことを両立していったのか、ということをぜひ聞かせて頂きたいです。

バンドを一生に1回だけでも本気でやってみよう、と思い立ったのは、大学3年生になる年でした。大学1,2年の時はバンドはほとんどやってなかったですね。

高校から大学入ってすぐくらいまではゆるゆるとバンド活動をしていたんだけれど、バンド内で揉め事があったり、メンバーとも予定が合わなかったりして、「もうバンドはいいかな」と思っていたんです。それに加えて、大学1年生の頃は、もう勉強が楽しくて楽しくてもうしょうがなかったんですよ。

そもそもこの学科を選んだのも、何となく「病院で働く仕事っていいな~。その中でも診療放射線技師っていう仕事がどうやらあるらしくて、放射線を当てて体の中を見るなんて!すごい面白い!!」っていう本当にそれだけの理由だったんですけど、中学の頃から憧れていた医療系の大学に遂に入れて、「これからは自分がやりたかった“診療放射線技師”に関する勉強しかやらなくていいんだ!」「放射線の勉強ばっかりで楽しい!」っていうことが本当に大きくて。1、2年生の時は、勉強が楽しくてしょうがなくて、授業が終わった後も図書館に何時間も残って勉強したりしていました。だから、「楽しいなー」と思って勉強ばっかりしていたら結果的に成績も一緒に付いてきたという。それで1,2年生のうちに基礎の部分はしっかり出来ていたんです。

3、4年生の勉強は発展的な内容だったので、基礎の上に組立てていくという感じでした。だから1、2年生のうちに基礎が出来ていた私は、勉強への熱量をそれまでより多少減らしても、割と授業についていけて、多分それでバランスがとれていたんだと思います。

あと、3年生の夏に第一種放射線取扱主任者の試験を受けたんですよ。それも結構良かったと思います。8月に入ってから勉強を始めたので3週間くらいしかなかったけど、本当にその3週間だけはバンド活動もやめて、朝から晩まで勉強してなんとか合格しました。あの頃は、管理学の授業を前期にやっていなかったので、自力で勉強したんですけど、そのお陰で後期の授業が少し楽になりました。その他の科目についても、その時に沢山自分で勉強したから、授業は復習のような感じで聞くことができました。そんなこともあって、勉強とバンド活動がバランス良く出来たのかなと思います。

 

 

 

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