藤井さんの子供のころから、現在までにご経歴を教えていただけませんか?(続)

就職して初めて入った病院は、99床の個人病院でした。そこに就職した経緯は、3年間化学の単位を持ち越していたため、先生から「化学の評価はなんとかしてあげるから僕のお薦めのところに就職する?」って言われて就職先を決めました。

だけどその病院は診療放射線技師がいなくて、夜間の放射線技師養成専門学校の学生に装置の使い方や運用を教わり後は毎日実習みたいな感じで、本を見ながら一般撮影をしていました。胃透視検査は、その当時学校で教わっていないから、本見ておおよその撮影法を覚えておくけれど、患者さんも見ながら、透視で画像見ながら、本で確認しながら・・・・・怖かったけどそんなこと言っている余裕もなくがむしゃらに撮影していました。

でもだんだんそれが面白くなってきて、今度は自分が出来るようになってくると、このままじゃいけないと思って外へ勉強しに行くようになりました。その頃は技師の勉強会と技師会と医師会の勉強も行っていました。

始めは、月に1回葛飾区医師会の消化管カンファランスに行っていたのですが、その後活動範囲を広げて台東区や北区の医師会にも進出していきました。

特に葛飾区のカンファランスでは開業医の先生で読影が得意でない先生もいらしたので結構発言させてくださいました。読影は、次の勤め先でも外の勉強会でも堂々と行っていましたし、するべきであると日頃から訴えていたので、目上の技師さんや理解のない放射線科医からくぎを刺されることもありましたが、若さゆえ気にせず常に前向きにやっていました。

その当時通っていた勉強会で、女性技師はほとんど参加していなくて、私は「紅一点」のようなものだったから、ちょっと何かするとすごく可愛がってもらえるわけ。若かくて可愛かった(?)し。学生時代ずっと劣等生だったのが「よくこんなの分かったね」「すごいね!」とかチヤホヤしてくれるので頑張って勉強していくでしょ、そうするとまた褒めてもらえる。段々それがいい方向に波及して、知らない人からも「今度これやってみない?」とか声かけられるようになっていき、それを断らないでトライしていくと何故だかトントン拍子みたいな感じでスッテプアップできたんです。

そんなこんなで、だんだんできるようになってくると、指導者も先輩もいない個人病院で務めていて「10年先、20年先に何も知らない技師じゃどうなのかな」と考え始め、駒澤の先生に相談して、東京臨海病院の前身の下谷病院を紹介していただきました。面接で「女性は募集していない」と言われた上に、他に男子が数人きていたのでこれは駄目だと思って他の病院に願書出したりしていたんだけど、なぜか受かったんだよね~(笑)

当時は、今より男社会だったので、さっき話していたような良い時ばっかりじゃなくて、なにかあると「だから女は・・」って言われたものですよ。一番悔しかったのは、ポータブルの装置の照射野のランプが切れたので、それで取り替えようと思って「ランプ切れちゃって・・・」って話し始めたら、「ランプぐらい何で取り替えられないんだ。だから女は駄目なんだ!』って頭ごなしに怒鳴られたこと。まあそういうのが日常茶飯事だったので、悔しくて悔しくて「何で~ちくしょ~っ!!」って言いながらトイレで度々泣きましたね。隠れてね。女性であることで良いこともあったけどそうやって理不尽なこともいっぱいされました。

患者さんも、男の先輩にはちゃんと「先生」なのに私には「姉ちゃん、姉ちゃん」って呼ぶのね。ひどいのは、腰椎を撮る時に「腰椎を撮るのでズボンを下げて準備してください」って言って入ったら、スッポンポンで横になって寝ていて、ニヤニヤしているの。さすがに先輩と変わってもらったけど。完璧セクハラだよね。

 

 

 

東京臨海病院 技師長 藤井雅代氏 前編③へ